映画レビュー「アクト・オブ・キリング」 映画レビュー 2014年04月16日 「ワールズ・エンド」を見たあとにハシゴで見に行きました。 (ハシゴ酒ならぬハシゴ映画・・・) 「ワールズ〜」とはあまりにも振れ幅の大きい問題作です。 アクト・オブ・キリング ■予告編 ■あらすじ 1960年代のインドネシアで行われていた大量虐殺。その実行者たちは100万近くもの人々を殺した身でありながら、現在に至るまで国民的英雄としてたたえられていた。そんな彼らに、どのように虐殺を行っていたのかを再演してもらうことに。まるで映画スターにでもなったかのように、カメラの前で殺人の様子を意気揚々と身振り手振りで説明し、再演していく男たち。だが、そうした異様な再演劇が彼らに思いがけない変化をもたらしていく。 主人公のアンワルは、映画館の前でダフ屋をやっていたプルマン(フリーマンが訛ったもの)。まあ、ヤクザですな。大量虐殺をやってのけた彼が「過去、いかに映画に影響を受けたか」を嬉々として語る場面はなんだか複雑な気分になります。 自分も映画好きの端くれとして、沢山の映画に感動させてもらい、知恵を授けてもらい、大きな影響を受けてきました。一方で、おなじく映画が大好きなアンワルは、映画から受けた影響を暴力に変えて無邪気にぶつけていきます。「マフィア映画でよくワイヤーを使ってるだろ?」「自分もそれを真似た。映画よりも残虐に」と、ニコニコ笑顔で彼は語ります。 そして、道を隔てて映画館の向かい側にある旧新聞社で、虐殺が行われました。新聞社も、メディアの力を利用して”共産主義者”たちを糾弾していきました。ガチャコンガチャコンと動き続ける輪転機が、止めることができない巨大な暴力装置のように見えてきます。本来夢を与えるはずの映画、本来情報を多くの人に届けるためのメディアが、巨大な暴力を後押ししてしまったわけです。道一本隔てて夢と絶望が向かい合う、異様な世界が我々観客に叩き付けられます。 こんな具合で、プルマンたちの極悪非道ぶりに唖然としつつも、自分が無邪気に楽しんでいた映画やメディアの裏にある暴力性に対しても、かなり衝撃を与えられました。 しかし、後半にいくにつれて、「人間」と「映画」のもう一つの側面が現れます。 「自ら行った虐殺を、自ら演じて映画にする」ことで、アンワルは自分の行った行為に向き合わざるを得なくなり、「映画」はまるで鏡のように罪の意識をアンワルに打ち返します。 「映画」の力を借りて暴力を振るった彼が、逆に「映画」によって追いつめられて行く。 インドネシアの現政権ではアンワルは英雄ですが、そこを一歩でれば極悪人です。絶対に道で すれ違いたくないような人間です。地獄に落ちたほうがいいでしょう。本来なら、許せない、罪の意識から救ってもらおうなんて思うには虫が良すぎる人間かもしれません。 ところがどっこい、「映画」はそんな彼でさえ受け入れ始めます。クライマックスに差し掛かると、「映画」は極悪人であるアンワルをそれ以上追いつめるのではなく、まるで彼を許し、受け入れ、救おうとしているかのような存在になっていくんです。 ここで、「映画」がもつあまりの包容力、懐の広さに二度目の衝撃。 アンワルの行為を許す人はまあ殆んどいないでしょうが、逆に、面とむかって彼を批判し否定できる度胸のある人がどれくらいいるでしょうか。彼と直に向かい合える人はそういないでしょう。絶対に手に負えない存在のはずです。だけど、映画にはそれが出来てしまう。 春日太一さんの著作「あかんやつら」のなかで、東映に集まってきた荒くれ者のスタッフたちについて記述されているところがありました。 小指がない者、入れ墨だらけの者、戦争で人を殺めてしまった者・・・、彼らの行為を受け止めるのは、アンワルの例と同様、映画だった・・・。 ただただシネコンやミニシアターで映画を見ているネクラなコミュ障の自分からすれば、アウトサイダーたちと映画のぶつかり合いは、もはや神々を戦いを見てるようなものです。 オレなんか、ただただ縮こまることしかできません。 ああ人間恐ろしい、映画恐ろしい。しかし、計り知れない力も持っているのが最大の魅力。 PR